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管 啓次郎氏&富田 俊明氏&中村 絵美氏 [etc.]

2012.0318 18:00〜22:00 喫茶ジスイズで開催されたシンポジウム
テーマ:「土地、神話、美術 ネイティブ感覚と現代美術の可能性」
管啓次郎氏:明治大学大学院理工学学研究科新領域創造専攻ディジタルコンテンツ系の教授。
      コンテンツ批評とデザイン人類学を2本の柱として研究。詩人。
富田俊明氏:北海道教育大学美術講師。相模原出身、山伏の修行をした美術家。
中村絵美氏:道南出身、北海道教育大学岩見沢校で芸術過程を卒業、現在は明治大学大学院理工学研究科で勉強中。
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まずは今回のテーマについて、それぞれの立場からどう関わっていらっしゃるのかを伺いました。

管氏・・・
この20年位 世界中の先住民といわれている人たちがもっている感覚のことを考えてきた。
現在の流れは非常に間違った方向にむかっていると感じる。
もしその方向転換ができるとしたら 
土地との感覚、土地に生きている他の生物との関係、それを見直さない限りは道はないと思ってきた。
美術家は一種の原始人だと思う。
見失った感覚を一番ものとのかかわりの中で取り戻そうとしている人たちだと思うから。
現代の人間社会がもっている想像力の限界をつきつめること、
実はものすごく限られた部分でしかかかわっていない。
でも、その部分を押し広げるための努力を重ねているのが一人一人の現代美術家だと感じる。
富田氏・・・
ある種、現代人がかかわるもの、限界状況で思考していること、記憶喪失を自分的には相模原病と名付けた。それはある意味創造の病かもしれない。
創造の病とは、創造するために、自ら病的な領域に入ってくこと。
創造は、日常の常識的な意識からは生まれてこない。そこで、自ら、それを打ち破って、精神病に近い領域や、もっと奥まで探求しに行く。
その状態は、外からはまるで病気のように見える。
芸術家は、その病から何かを獲得して、こちらの世界に帰ってきて、それを伝えようとする。
この一連の動きを、創造の病、と呼びます。
その病から回復するのは美術作品かどうかわからない。
本気で克服すること自体が、全人生をかけて何かを作り出すこと。
そういう意味では誰もがアーティストになれると思う。
それを自分の問題として考えているのはもしかしたら現代美術家なのかも。
中村氏・・・
同じまちに18歳まで住んだ。アウトドアが好きな父親に野外に連れていってもらい
シカやカモを食べたり、色々な体験を幼い頃からした。
ある意味、まちからのドロップアウト。それが創作の時に障害になった。
まちと自分をみる作品をつくった時に見せ物感があった。
それを切り売りしている自分がいた。

続いてネイティブ感覚について管氏、冨田氏、中村氏に伺っています。
03184.jpg 人間は本来どこかの土地に所属して生きることができたもの、か弱い存在だったと思う。
まず、物質的所属。その土地でとれるものを食べて、その土地の水を飲んで命をつなぐ。
次に霊的所属。先祖の眠っている土地の歴史があり、
そのうえで自分が生きている。その土地との絆は断ち切れないもの。
最後はそこの土地が美しいと思うもの。
全部にイエスといえる人がその土地に生きている人。でも多くの現代社会に生きる人にはそれがない。
寂しいことだと思う。その土地の動植物のことを知らないのは寂しいこと。
多くの動植物に支えてもらっていることを知らない、知ろうとしないことは自分たちにとって哀しいこと。
そういったまちがった生き方を多くの現代人が強いられている。
なぜなら
・土地からきり切り離されてしまった。
・商品という形で自分の生命を支えてくれるすべてのものを得ている。
それはそもそも近代の成長してきた至上社会が根底にあり、お金ですべてが解決できる生き方を全面的に見直さなければならないことだと思う。
その切り口になりそうなのが現代アート・・・


03186.jpg 相模原は典型的なベッドタウン。
そこを支えているのはすべてもっているということ。ただあるだけではない。
一方で山形出身の母の土地にいくと、土地にまつわる話をきかされ、それは自分にとって関係のあることばかり。
その違いはなに?
その土地が僕を知っているということ。見ているということ。
僕がもたれている、抱かれているということ。関係が相互的。
30歳の時にもっと積極的に自らつくっていこうと思い、山伏修行を。
外側から景観をかえたりすることではなく、内側でおこること。それが僕にとってのネイティブ感覚。


03185.jpg 菅氏の本を読んで、ネイティブアメリカンのことを書いてあるはずなのにこれって自分のこと?
私って現代人じゃない?と感じた。
いきなり名付けられた感じで、自分はまだ把握していない。




アメリカインディアンの話。
管氏がアメリカインディアンの研究をしていた時代
様々なインディアンがそこに来ていて、彼らは自分達の文化伝統について何もしらないことに驚く。
ただ切実だから必死。知識として知らないのみならず、自分達の中でそうしたものがすべて忘れられたところから始めている。
要は、どう追求するのかひとりひとりの問題になる。
あらかじめ与えられてものではなく、一人一人が自分をどういうるふうに作っていくのかということ。
どこかのグループに属しているからその伝統や知識がよくわかっているという状況ではない。
みんなが何もないところからはじめている。
何もないところからもう一回何かを再発見していくプロセスが美術の条件と非常に重なってくる。

現在は伝統を受け継ぐものが形骸化されている。
そこに不足を感じる人がつくっていく側にまわっているのでは?
ここでブッシュマンの話。
彼らには二つの飢えがある。身体の飢えと心の飢え。
その飢えを満たすために彼らは物語を作ったり、何かを描いたり、踊ったりする。
逆説的には心の飢えを感じない人にアートはないと思う。
現代のものがあふれる生活の中で、心の飢えを感じる人だけがそれをつくりにいく、それがネイティブ感覚だと思う。

アーティストがおもしろいのは、個人の何かを追求しているけれど
個人の話にとどまらず、人類という全体がもっとどこか別のところにいけないか、
別の生き方ができないか探っているというところ。

アーティストは自分の命を救おうとしているから切実だし意味がある。

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